天啓パラドクス(テンパラ)公式小説

「天啓パラドクス」ノベライズ

──3章1話──

  • 褐色の肌の女が森を歩いていた。
    まだ若く、少女と呼んで差し支えない年の頃だろう。背に流した黒髪は腰を大きく越えて伸びている。伸びやかな肢体を覆う布の面積は少なめで、特に肩から胸元にかけては瑞々しい肌を惜しげも無く晒していた。
    女はふと、足を止める。
    温和な性向を思わせるたれ気味の目を空へ向けた。
    「何か嫌な感じ……まるで森全体が、良くない何かに包まれているような……」
    女は指先を頬に添えて思案する。
    「このまま急いで森を抜けるべき……?ううん、わたしはそれで良くても、あの子が心配だわ……」
    女は踵を返し、森の中へと再び戻っていく。
    その先にあるのは――
  • 俺とマカロンは繁みのなかから顔を出し、周囲をうかがった。
    「ねえ、もういなくなった?」
    「ああ。アニマはもう見当たらない。けど……」
    その瞬間、視界の端に不穏な影を見つけ、俺はマカロンの頭を押さえつけ、同時に自分も身を潜める。
    「伏せろ!」
    息を殺して様子をうかがう視線の先を、小型の魔物が通り過ぎていった。
    十分に距離が離れるのを待って、俺たちは揃って息を吐く。
    繁みから這い出ると、マカロンは魔物が通り過ぎていった方向へ目を向けた。
    「いまの、アニマじゃないやつ。ふつうの魔物だよね」
    あぁ、と俺は頷く。
    マカロンが見たという、大型の「ゼノアニマ」がリーニャ・タウンを襲撃する光景。
    その陰惨な未来を変えようと、俺たちはリーニャの森深くに足を踏み入れていた。
    しかし、間に合わず鏡が出現し、アニマの大群の襲撃を受けてしまう。
    戦力にならない俺とマカロンは、お荷物にならないようにと先行してその場を離れたのだったが……。
    「まもの、いっぱいだね。アニマだけでも大変なのに、あんなのまできちゃったら……。ソフィアもライサも平気かな」
    マカロンは来た方向を振り返り、憂い顔で呟いた。
    「ふたりを信じるしかありませんぜ」
    ハンペンの励ましも、どこか力強さに欠ける。
    だが、今の俺たちにできるのは、無事を祈ることくらいだ。
    「きっと大丈夫だ」
    まるで説得力がないのを承知で、俺は何度繰り返したかわからない気休めを口にする。
    マカロンは口を尖らせた。
    「むう……しんぱいだよ。ここでまってるだけでいいの?」
    いいわけがない。
    できることがあるなら、とっくにやっている。
    だが、俺は無力だ。魔物と出くわしても戦うことはできない。ただひたすら逃げ、息を潜めてやり過ごすのが精いっぱい。
    己の無力に歯ぎしりする思いで、俺はマカロンを宥めようとした。
    「……俺も同じ気持ちだよ、マカロン。でも、戦えない俺たちにできるのは、足手まといにならないように……」
    「あ、いた」
    不意に俺達の背後、それもごく至近距離で声がして、俺たちは飛び上がる。
    「――っ!?」
    「あうあうあう!?」
    すっと伸びてきた手が俺とマカロンの口を押さえた。
    「静かに。まだ魔物が近くにいる」
    その淡々とした声には聞き覚えがある。
    俺は振り向くのももどかしくその名を呼んだ。
    「ライサ!?」
    「だから静かにって……」
    銀髪の少女は不興げに眉をひそめる。
    怒られているのに、それが嬉しくて仕方ない。
    「あぁ、ごめん。でも無事で……無事で良かった……」
    盛大に安堵のため息を漏らす。
    今度はライサも怒らなかった。
    隣でマカロンも胸を撫で下ろす。
    「びっくりした……まものかとおもったよ」
    その点は同感だ。
    俺は苦笑してささやかな苦情を申し立てた。
    「気配を殺して背後から近づくのはやめてくれ……。心臓が止まるかと思ったぞ」
    「ごめん、癖で」
    「どんな癖ですかい、それは……」
    ハンペンのツッコミにも安堵がにじむ。
    悪化する一方だった状況に、ようやく歯止めがかかった。
    「どうして、マカロンたちがここにいるってしってたの?」
    「知ってたわけじゃない」
    ライサは相変わらず淡々とした調子で首を振る。
    「待ち合わせの大ケヤキに向かうとこだった。そしたら、ふたりを見かけたから」
    俺は再び苦笑する。
    魔物に見つからないよう、姿を隠して進んでいるつもりだったが、見る人が見ればバレバレだったらしい。俺達を見つけたのが魔物でなくライサだった幸運を感謝するばかりだ。
    驚きが通り過ぎると、関心事は一つしかない。
    「ね……ソフィアは?」
    マカロンの問いにライサは首を振った。
    「わからない。別方向だから」
    「あの状況じゃ、同じ方向に一斉に逃げたんじゃ危険か……」
    「見えてる間は、無事だった 」
    それこそ気休めにもならない。二手に分かれたふたりが互いの姿を視認できた時間はほんのわずかだろう。
    「ぶじだよね?ソフィアつよいもん……ね、そうだよね」
    「見えなくなってからのことは、わからない」
    事実だが、少しばかり配慮に欠ける言葉でもある。
    案の定、マカロンはくしゃっと表情を歪め、しゃくり上げ始めた。
    「あう……ひぐっ……ソフィアぁ……」
    「大丈夫、ソフィアなら必ず無事で戻ってくるから」
    俺は慌ててマカロンを宥め、ハンペンはやれやれとばかりにため息をつく。
    「ライサさんはお嬢の扱いが下手ですなぁ」
    「なんか、ごめん。泣かせるつもりはなかった」
    ライサが気まずそうに頭を下げ、マカロンは小さく頷いた。
    「ん……だいじょぶ……」
    俺は努めて明るい声を出す。
    「ソフィアのことも心配だけど、自分たちのことも考えないとな」
    それは必ずしも強がりばかりではない。ソフィアは自分の身は自分で守れる。しかし、この場で戦えるのはライサひとり、あとはお荷物だけなのだ。
    ライサも頷いた。
    「うん。まだ周辺にもアニマや魔物がいる。一ヵ所に留まるのは危険」
    そうだ。彼女にはこれ以上、自分の身を危険にさらしてまで俺たちに付き合う理由がない。個人的な友誼があるわけでも、雇用契約を結んでいるわけでもないのだ。なんだったら、今この瞬間に俺たちを見捨てて逃げても、非難される筋合いはない。
    ここまで行動を共にしてくれたのは成り行きと彼女の好意──実際にそんな感情があるかどうかはわからないが、行動から読み取る限り、そう解釈するしかない──なのだ。
    この上、それに甘えるわけにも、期待するわけにもいかない。だったらせめてマカロンだけでも町に連れ帰ってもらうわけにはいかないだろうか。引き返すなら最寄りの町はリーニャ・タウンだ、そこまで連れていってくれと頼むくらいなら「ついで」として許容される範囲を超えていないように思う。
    待ち合わせの大ケヤキには、俺ひとりで行けばいい。
    考えを巡らせる俺を、ライサが急かし、マカロンが気遣う。
    「どうしたの。早く移動しないと」
    「おなかいたくなっちゃったの?」
    「あ、いや、ライサは……どこへ行こうとしてるんだ?」
    「大ケヤキで待ち合わせのはず」
    「いや、そうなんだが……ライサも来てくれるのか?」
    ライサは思いがけないことを言われたとでも言いたげな表情で首を傾げた。
    「もちろん。あなたたちを見捨てたりはしない」
    「リスクがあるのは……ライサなら、わかってるよな。それでも来てくれるのか」
    ライサはデキの悪い生徒に言い聞かせる教師のような風情で指摘する。
    「ここで逃げても、時間の問題。マカロンの予知が確かなら、町も危ない」
    「確かにそうだけど」
    それに、とライサは付け加えた。
    「私は向き合わなきゃいけない」
    「向き合う?何とだ?」
    ライサは首を振る
    「なんでもない。とにかく、私は逃げない」
    理由を説明する気はないらしい。
    だが一緒に来てくれるというなら、もちろん、こちらとしてはありがたい限りだ。
    「どうしたの?ライサといっしょにソフィアとまちあわせじゃないの?」
    「遅刻でもしたら姉御にぶっ飛ばされますぜ」
    マカロンとハンペンが口々に促す。
    この先もライサの好意に甘えるのは心苦しいが、現状、それが事態打開に最も高い可能性を持つ選択肢であるのも確かだ。
    「……ああ、そうだな。じゃあ予定どおり、大ケヤキに向かうぞ」
    「むかうぞー!おー!」
    マカロンは元気いっぱい、拳を振り上げた。
    大げさな仕草で大ケヤキへと歩き出すマカロンに微笑しつつ、俺は一歩、ライサに歩み寄る。
    「ありがとう、ライサ」
    「お礼を言われることじゃない」
    「ライサにも何か事情はあるんだろうが……それでも、いまの俺たちにとってライサの存在は本当に心強いんだ。危険に付き合わせて悪い。でも……頼む。いま頼れるのはライサだけだ」
    この恩は決して忘れない。商人は義理堅いのだ。利益には利益で報いなければならない。
    もっとも、今の俺にはライサにできることなんてなにもない。
    せめて感謝の気持ちを伝えようと、信頼を表そうとして手を差し出す。
    一瞬、戸惑ったような顔をして、それでもライサは握り返してくれた。
    が、その瞬間、弾かれたように手を離す。
    俺もまたハッとした。
    「今のは……?」
    「……私に、何をしたの」
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