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「天啓パラドクス」
ノベライズ
──3章7話──
- それはベアトリスが、日課の楽器の手入れを始めようと、防音室に入ったときだったそうだ。
大木が轟音を立てて、幹から折れる。
その土煙の向こうに、醜悪なシルエットが見てとれた。
「ナディラが――友達が帰ってしばらくしてから、すごい音がしたの。窓から外を見たら、大きな木が次々に倒れてて。すぐに、危険だと思ったわ。全身からこう、警報が鳴るような感じ。けど、思ったからって何かできるわけじゃなくて」
気付いたときにはもう、ダイニングルームの屋根が吹き飛んでいて、目の前に異形の怪物が立っていた。
その足元には無残にも命を奪われた、森の獣たちの骸が折り重なっていたと言う。
「もう、必死で……割れた窓から飛び出して、森を走ったわ」
感情をこめず、訥々と語る口調が逆に彼女を襲った衝撃の大きさを物語っているように思われた。
「動物って、嵐だとか自然の何かが起きるときって、本能で察知して逃げるんだと思ってたの。実際、私は森で生活するために、狩りをすることもあったけど、簡単じゃなかったもん。なのに、あんな……」
そのときの光景を思い出したのか、ベアトリスはブルッと身を震わせた。
「野生の本能で生きてる動物とかでも逃げられないなら、私なんてもう、死ぬしかないって覚悟したわ。とにかく走ろうって、それだけで――」
ベアトリスは自宅のほうに目を向ける。
「走って逃げる後ろから、家が崩れてく音を聞いて、本当に怖くて……それでも夢中で走り続けて、もうどこ走ってるかもわかんなくて」
静かに目を伏せ、彼女は話を締めくくった。
「最後は、なんとなく気が遠くなったのを覚えてる。そのとき、きっと倒れちゃったのかも……」
マカロンが俺にしがみつく。
「ふええ……そ、そんなのこわすぎる……!」
「とんでもない相手ですぜ、これは」
うーむ、とハンペンは唸った。
「予想していた以上の破壊力のようだな。一撃で屋根が吹き飛ぶ、そんな攻撃を食らったらひとたまりもないね……!」
さすがのメリッサも、ベアトリスの体験談を聞いて、余裕を保ってはいられないらしい。
俺も絶望的な気分が押し寄せてくるのを感じる。
「そんなやつ相手に、何ができるっていうんだ……。俺たちは軍隊とかですらないんだぞ。ただの、偶然居合わせた一個人が集まっただけで……」
「ゼノアニマとは、こういう存在」
ひとり、ライサは冷静さを保っていた。
予備知識があるというだけではない。恐らくは、立ち向かうと決めた、その意志の強さが為せる業。
「戦って、打ち勝つのは、簡単じゃない」
正直、ここに来るまで心のどこかに「どうにかなるんじゃないか」という楽観的な気分があったのは否めない。
ライサもメリッサも卓越した戦闘力の持ち主だ。まして、奇跡的と言ってもいいだろう、ふたりとも俺の力を受け取ることができる幸運に恵まれている。
ゼノアニマとやらがどれほど強大な化け物だろうと、倒せない相手ではないのではないか。
しかし、ベアトリスの回想、なにより一撃で打ち砕かれた彼女の家の惨状を自分の目で確かめたことが、俺に方針転換を迫っていた。
「目的をハッキリさせておこう。俺たちはゼノアニマをどうにかするために、ここまで進んできたわけじゃない。ソフィアと合流するためだ。だから、ゼノアニマと遭遇するリスクがあってもソフィアのことは探す。でも、合流したら撤退するべきじゃないのか」
どうにかして、リーニャ・タウンまで逃げ延び、急を知らせる。衛兵の出動を要請し、可能なら近隣の村や町に救援を求め、その上で対処する。ゼノアニマの脅威を思えば、そのくらい慎重に立ち回って然るべきだろう。
常に対決姿勢を示してきたライサも、俺の判断に異を唱えない。
「……現実的な選択だとは思う」
「そもそも、鏡が出てきたりゼノアニマが現れる前に、なんとかできないかって始めたんだ。もう、未然に防ぐなんてできない」
「そうだったな。お前たちはこのバケモノが現れると知った上で森に入ってきたんだったな」
ライサが頷くと、ベアトリスが仰天した。
「知っててきたの!?」
まぁ、そういう反応になるだろう。
俺だって、実際にその破壊の爪痕を見た今、それが蛮勇を通り越して自殺行為に近いと思わずにいられない。
「マカロンはみたの。まちがね、めちゃくちゃにされるところ」
「……例の予知か」
メリッサの言葉に頷いて、俺は話をまとめにかかる。
「現れないようにする手段がないか、探すつもりだったんだ。だからもう、計画は完全に崩れた」
前提が変わった以上、計画は練り直すべきだ。あんな化け物とまともにやり合うなんて正気の沙汰じゃない。ソフィアだけはなんとか探し出したいが、その先のことは改めて考え直すしかない。
だが、俺がその考えを口に出すより早く、その場にいないはずの声が割って入った。
「だけど私たちがやるしかないでしょ!?」
俺たちは一斉に振り向く。
「ソフィア……!!」
「姉御!?」
「ソフィアだ!よかったぁ!」
木の陰から姿を現したのは、間違いなくソフィアだった。
俺の肩からドッと力が抜ける。
良かった。ソフィアは無事だった。これでもうなんの心配もない。
ソフィアはゆっくりと歩み寄ってきて、俺たちの顔を順番に見つめた。
「ごめんね、マカロン。心配かけちゃったよね。あなたもハンペンも、ライサも無事でよかった」
メリッサに向けられた目が怪訝そうな色を帯びたが、なにも言わない。
メリッサのほうも、俺たちの再会に水を差すつもりはないようで、沈黙を守る。
「ソフィアも……無事でよかった」
ライサの声にも安堵がこもった。
ハンペンは調子のいいことをのたまう。
「あっしは姉御のことを信じてやしたぜ」
「ああ、これでひと安心だな。こうなったら、いよいよ――」
俺の言葉を遮って、ソフィアが目を光らせた。
「この場から逃げるべき、っていうわけ?」
ソフィアの眼光に射すくめられ、俺は狼狽える。
確かにソフィアにとっては故郷の、リーニャ・タウンの一大事だ。その決意の強さは俺の比ではないだろう。
もちろん俺にとってもリーニャ・タウンは大切な場所だ。守りたいと思うし、そのためにできることがあるならなにを惜しむつもりもない。
だけど、さすがに生命まで差し出すわけにはいかない。
ソフィアが生命を危険にさらすのを、見過ごすこともできない。
「だって相手は本当に危険なんだぞ。ソフィアは見てないから、わからないかもしれないけど」
俺の説得をソフィアはあっさり否定した。
「見たわ」
「え……!?ゼノアニマを……?」
声を上げるライサにソフィアは頷く。
「ベアトリスが逃げるところに、たまたま居合わせたのよ。ほんとうにあっという間に、ベアトリスの家を壊してた」
そう言ってソフィアはベアトリスに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、ベアトリス。私は何もできなかった」
「う、ううん……。あんなの、誰にもどうにもできないから」
「それなら、なおさら……わかるはず」
ライサは強い視線をソフィアに注いだ。
「ゼノアニマは、本当に……」
固めた拳をグッと胸に押し当てる。
かつて経験した悲劇を思い出しているのだろう、その拳が小刻みに震えていた。
「何もかも、奪っていく……」
マカロンがそっとライサの背に手を添える。
「ライサ……だいじょうぶだよ。いま、ゼノアニマはいないからね」
ソフィアもまたじっとライサを見つめ返した。
「危険なのはわかってる。だけど……ううん、だからこそ、逃げるわけにはいかないじゃない!」
ソフィアは底光りする目を俺に据える。
「あんなのがリーニャ・タウンに来たらどうなると思う!?あいつは動きも早かった。私たちが戻って全員を避難させるだけの余裕があるかどうか、わからないでしょ!?」
「……それは、そうだけど」
「あなた、言ったわよね!?『町を守って顧客を創出すること』が、商人にとって一番だって。だったら商人として、やるべきことはもう決まってるじゃない!」
もちろん、忘れたわけではない。
だが、それは一種の照れ隠しと言うか、らしくもなく勇ましいことを言っている自分を自分で茶化すようなニュアンスで発した言葉だ。全くの口から出任せというわけではないにせよ、殉じなければならないほど重大なポリシーと言うわけでもない。
だが……俺は商人だ。
商人は利益で動く。
ここで逃げ出せば、ひとまず身の安全は保証されるだろう。だがその代わり、リーニャ・タウンが打撃を受ける可能性が高い。
リーニャ・タウンが打撃を受けることは、俺にとって絶大な不利益だ。
それは単に顧客を失うだけに留まらない。商売上、重要な拠点を失うことを意味する。その損失は取り返しがつかない大きさを持つだろう。
町を守ったからと言って一銭の儲けにもならないが、町が失われてしまえば商売そのものが、ひいては俺の人生そのものが立ちゆかなくなる可能性がある。いや、その可能性は高い……極めて高いと言ってもいいだろう。
加えて、ソフィアだ。
彼女にとってリーニャ・タウンという土地が持つ意味は、俺よりさらに大きい。もしも町が壊滅してしまえば、その精神的な衝撃は計り知れない。二度と立ち直れない可能性すらある。剣士という仕事を続けられる精神力が失われてしまうかもしれないし、仮にそれが残ったとしても、俺という人間に対する信頼は欠片も残らないだろう。結果、俺は信頼できる護衛を失い、新たな護衛を見つけるまで魔物や盗賊の脅威にさらされながら商売をすることになる。それは極めて困難を伴う選択だ。そこから立て直し、今と同じくらいの商売ができるようになるまで、どれくらいの時間がかかるか。それは事実上、不可能に近いくらいの難事と言っていい。
戦っても死、逃げ出しても死。
だったら、せめて大切な人の信頼を裏切るまい。
そうすれば、少なくとも後悔にまみれて死ぬことくらいは避けられるだろう。
「あなたなら、できるよ。絶対、できるって……私、信じてるから……だから、お願い……」
すがるようなソフィアの視線を見て、俺は気づく。
ソフィアだって、ゼノアニマと戦うことのリスクを軽視しているわけじゃない。いたずらに勇敢を気取っているわけじゃない。
彼女もまた、その困難を突きつけられ、絶望的な選択を強いられ、それでもほんのわずかな可能性に賭けようとしているのだ。
「あぁ、クソッ!こんなの絶対大損だ!」
俺は髪をかきむしりながら怒鳴った。
「でもしょうがない!放っといたらもっと大損だ!……ゼノアニマを止める!」
「……!!」
ソフィアの目が歓喜に揺れる。
いや、そんな顔しないでくれ。まだ全然、成算ないんだから。
「正気なの……?」
うん、俺も自分でそう思うよ、ライサ。とても正気の沙汰じゃない。ほとんどヤケクソと言ってもいい。でも……多分、それが一番マシなヤケクソだ。
「ふふん、いい顔じゃないか。さすがは美しい私を従えている男だね。実際、ここで尻尾を巻いて逃げるのは、私の美学にも反する」
いや、メリッサ、俺、お前を従えてるつもりないんだけど。でもまぁ、今の俺の気分はお前の言う「美学に反する」ってのが、一番近いかもしれないな。
「よくわかんないけど、よかったね、ソフィア」
「うん……ありがとね、マカロン。みんなも……」
一番最初に現実に立ち返ったのはライサだ。
「簡単にどうにかできる相手じゃない」
「わかってる。ゼノアニマをなめてかかってるわけじゃない。ただ、どれだけ危険でも、不利でも、やらなきゃいけないんだ」
ライサは唇を噛む。
ゼノアニマの脅威について、最も熟知しているのは恐らく彼女だ。
今にして思えば、ライサが繰り返し訴えていたゼノアニマの脅威について、もう少し真剣に受け止められていれば、あるいはいくらかマシな対処ができたかもしれない。
だが、今さらそれを言っても仕方ない。
そして、危険は重々承知しているだろうに、ライサは自分だけ逃げるとは言わなかった。
俺は先ほど知り合ったばかりの女性に目を向ける。
「そういう状況だ。誰かを護衛役につけることはできない。ベアトリスは、ひとりで逃げてもらうことに……」
だが、稀代の天才音楽家ベアトリスは、俺の言葉をきっぱりと遮った。
「ううん。私だって……私だって戦う!だって、リーニャ・タウンの人たちは……私の音楽を待っていてくれる。聞く人のいない音楽なんて、何の意味があるの?」
「いいのか……?」
「『顧客を創出する』んでしょ?商人のあなたと、同じ」
そう言ってベアトリスは晴れやかに微笑む。
まったく、どこのどいつだ、この人格者が人嫌いだなんてとんでもない誤解を言いふらしたやつは。
「いい目ですぜ、ベアトリスさん」
「わかった。無理はしないで」
体制が決まったところで、作戦会議だ。
まずライサが口火を切る。
「それで、どうする?」
「ベアトリスの家が襲われているところを見てた限り、ゼノアニマは明確に人を襲うって意志はなさそうだった」
ソフィアの報告に、ライサは戸惑いを隠せない。
「そうなの……?」
「ゼノアニマの注意を惹けば危険なのかもしれない。でも、ベアトリスが逃げたとき、ゼノアニマは追いかけないで家を壊してた。だから私も黙って見守ってたのよ」
「それって、どういうこと?」
首を傾げるマカロンに、ソフィアは笑顔を浮かべてみせた。
まだ、希望はある。
そう言いたげに。あるいは、そう信じたげに。
「町にまっすぐ向かうわけじゃない、時間的な余裕はまだあるはずよ」
ふむ、とメリッサが頷く。
「だとすれば、一旦ベアトリスの家まで戻って、どっちに向かったのかを改めて痕跡を探す必要が――」
美に殉じる剣士の言葉を、突如として響いた轟音と凄まじい振動がかき消した。
「……っ!?」
「こ、この音って……」
「なんか、あばれてる……!」
「こりゃ、相当なパワーですぜ……!」
皆、口々に言いながらその出所と思しき方向に目を向ける。
ソフィアが不敵な笑みを浮かべた。
「どうやら、探すまでもなく向こうから来てくれたみたいね」
だが、その手が震えていることに、俺は気づいていた。
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