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「天啓パラドクス」
ノベライズ
──序──
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そこはなにもない「世界」。
空もなく、海もなく、陸もなく、名前すらない虚無の次元。
そこに降臨したのは太陽の神と月の女神。
両者は力を合わせ「世界」を作り始めた。
大気が、大洋が、大地が形作られ、そこに生命が生まれた。
名もなき「世界」は光に溢れ、生命は繁栄を謳歌した。
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時は流れ、神は相克する。
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月の女神は七体の悪魔を生み出し、数多の魔物を世界に放った。
太陽の神は七人の勇者に力を与え、人々はこれを支えて戦った。
長きにわたる戦いは太陽の神と人々の勝利に終わる。
月の女神と悪魔たちは封印され、力を使い果たした太陽の神も眠りに就いた。
そして「世界」は人々の手に託される──
──1章1話──
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闇のなかを荒い息づかいが二つ、駆け抜ける。
ただでさえ見通しの利かない夜の森。
加えて地面には枯れ枝が折り重なり、足下を危うくしていた。
先を行く人影がもう一方を振り返る。
「ちゃんとついてきてる!? ちんたらしてると、追い付かれるわよ」
柔らかさのなかにも芯の強さを感じさせる声は、僅かに切迫感を含んでいた。
まだあどけなさを残す面立ちは緊張に強張っている。
右手に携えた幅広の剣が華奢な乙女の身にいささか不釣り合いだ。
「ひとりに、なっちゃった……」
荒い息の合間に混ざる返事は、問いかけに応じていない。
それでも、振り向いた女剣士は気を悪くした風もなく同行者を励ました。
「片割れの心配は、自分が安全になってからしなさい。いまのあんた、相当ヤバい状況だってわかってる?」
その言葉に後からついて走る小さな人影から謝罪が返る。
「ごめん、巻き込んで」
先を行く剣士よりも頭一つ分、背が低い少女だ。小柄と言うよりはまだ成長過程と表現するほうが正しいだろう。桃色のふわふわした髪を振り乱し、息も絶え絶えになりながら懸命に足を動かしていた。
わずかに間を置いて剣士は愛想のない口調で応じた。
「私は自分の欲に従っただけ。別にあんたのためにやってるわけじゃないわ」
「ありがとう……」
「だから勘違いするなって言ってんの。縁もゆかりもないあんたを助けてやる義理なんて、私にはないんだから」
でも、と少女は胸中で呟く。
現に剣士は自分を先導して走り続けている。それは紛れもなく、差し伸べられた救いの手だ。
少女の脳裏に薄暗い部屋の光景が蘇った。
二台のベッドに、二台のテーブル、一台の書棚。定期的に運ばれてくる食事と、小さな格子付きの窓。
彼女にとって、そしてはぐれてしまった片割れにとって、その部屋が「世界」の全てだった。あの小さな「世界」を飛び出して、どれほど経っただろうか──
少女の物思いを、金切り声にも似た耳障りな叫び声が遮った。
「……アニマ!」
夜の森のなかにあってなお一段深い漆黒の闇。そこに血の色をした目と口だけが浮いている。
「はぁっ!!」
裂帛の気合いと共に剣士が得物を振るった。鋭い斬撃が闇にわだかまる瘴気を吹き払う。
「見てのとおり、自分の命を守るためにやってんの。まあ、感謝したけりゃ勝手にやってなさい」
武器を構え直し、剣士は周囲の闇に目をこらす。
あちこちに血の色をした目と口が見て取れた。
「……キリがないわね。なんなのこのアニマの群れ」
「敵に回しちゃいけない相手だって……もし敵対するなら、絶対に失敗しないタイミングでって、言ってた」
かつて片割れに聞かされた言葉を少女は口にする。
剣士は小さく頷いた。
「同感ね。でも、いまのこの状況……失敗してる気も、するけどねっ!」
言いながら振るわれた剣が、行く手に現れたアニマを斬り払う。その勢いのまま目についた巨木に駆け寄り、半ば衝突の勢いで背中を預けた。
少女も転がりこむようにして巨木の根元にうずくまる。
油断なく剣を構え周囲に目を配りながら、剣士は息を整えた。
「とりあえず、リーニャ・タウンに行くわよ。そこで一息つきましょ」
少女はハッとしたように剣士を見上げる。大きな目が戸惑ったように揺れていた。
「町に行くの? でも、町は……」
「この森で延々とアニマとやりあってるわけにもいかないでしょ。死にたいってんなら止めないけど、生き延びたければ脱出するしかないわ。なんとかそこまでついて来なさい」
躊躇いながらも少女が頷く気配を感じ取って、剣士は一つ息を吐く。
正確な現在位置はわからない。だが、開けた場所に出れば、町の象徴とも言うべき巨木が目印となり、大雑把な方角くらいは示してくれるだろう。
「あとはどうやってやつらを振り切るかだけど……」
ルートを探ろうと視線を先へ向けた瞬間、それまで周囲を照らしていた月の光が失われる。見上げると厚い雲に覆われていた。
剣士は思わず舌打ちする。
「先回りしてるやつがいるわね……」
月明かりが遮られたのは偶然ではないだろう。そういう厄介な性質を備えた魔物の噂を小耳に挟んだ記憶がある。
「どうする……?」
こっちが聞きたいわよ、と吐き捨てるのを剣士はぎりぎりで思いとどまった。
感情的になっていいことはない。冷静さを失えば、状況は一瞬で暗転する。
懸命に可能性を模索する彼女の耳に、密やかな声が届いた。
「おい、こっちだ」
ギョッとして振り向く。
こんな夜の森に自分たち以外、人間なんかいるはずがない。魔物のなかには人間をたぶらかすため人語を操るものもいると言う。その類に違いない。
構えた剣の先、確かに黒い影がわだかまっていた。中央付近に目鼻と思しき器官が見て取れる。
「出たわねっ!」
一瞬の躊躇もなく踏みこみ、剣を繰り出した。
影はひょいっとその鋭い刺突をかわし、その一部をゆらゆらとうごめかせる。人間が手を振る仕草を連想させた。
「おい、待て、敵じゃねーって。物騒な奴だな」
剣士は動揺を押し隠して剣を構え直す。
今の距離で外すはずがない。絶対の自信を持って放った突きだった。それをかわした以上、この相手はこれまで斬り捨ててきたアニマとは格が違う。
「そんな戯言に耳を貸すと思う? 何者なの!」
口調こそ詰問だったが、その裏に微かな怯懦が潜んでいることを彼女は自覚していた。
初撃をかわされた。
まともに戦って、勝ち目があるかどうか。
その葛藤を知ってか否か、影は中央に浮く目を文字通りの意味でくるりと回してみせる。どこかユーモラスな仕草に少女が小さく笑みを漏らした。
「俺はベルフェ。こう見えて、そこそこ使えるぞ」
「ベルフェ……?」
あいにく聞き覚えはない。と言うか、そもそも魔物の名乗る名に意味があるのかどうかわからない。
「……敵じゃない、と言ったわね。それはどういう意味?」
「どうもこうも、そのままの意味だろ。俺はお前たちに危害を加えるつもりはないし、むしろ手を貸してやろうと思って声をかけたんだ」
「そんな言葉を信じるとでも?」
「ったく、おっかない女だな。けど、考えてみろよ。俺がお前たちの敵なら、わざわざ話しかけるか? アニマに取り囲まれるのを黙って見てれば済む話だ」
なにか他に狙いがあるのかもしれない、と思ったが、自分はそんな狙いを持って接近されるほどの事情は持ち合わせていない。可能性があるとしたら連れの少女だが、ろくに身の上も知らない相手の背後関係など想像しようもなかった。
ねぇ、と声を上げたのはその少女だった。
「あなたはどうして助けてくれるの?」
「理由があるからだよ」
剣士の声が思わず尖る。
「なによそれ。思わせぶりな言い方しないでちゃんと説明しなさいよ」
「悪いな。こっちにも事情があるんだ。勘弁してくれ」
到底納得できる説明ではないが、そう下手に出られると追及しづらい。加えて、まともに戦って勝てるかどうか怪しい相手だ。できれば刺激することは避けたいという思いもある。
少女も釈然としないのか、うつむき加減で呟いた。
「いなかったかもしれない私を、助ける理由……」
「そんな、たいそうなもんじゃない。やり残したことと、後悔と、ちょっとの義理だ」
魔物はおどけた調子で笑みを作ってみせる。
不気味な姿をしていながら、その笑顔は妙に純朴な印象を受けて、剣士を戸惑わせた。
少女は顔を上げ、魔物に向かって微笑み返す。
「うん……わかった、信じる」
「ちょっ……!」
なにを勝手なことを、と言いかけて口をつぐみ、剣士はジロリと魔物を睨んだ。
「……いいわ。私を騙したらどうなるか分かってるわね」
チャキッと剣を鳴らして構え直す。
魔物の輪郭がわずかに歪んだ。人間で言えば肩をすくめる仕草だろうか。
「ったく、本当に物騒な奴だな。お前を騙して俺にどんな得があるって言うんだよ」
グッと言葉に詰まる剣士に、魔物は目顔で促す。
「こっちだ。ついて来な」
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魔物の案内でしばらく進むうち、女剣士は不思議なことに気づいた。
「急にアニマが現れなくなったわね」
魔物は得意げに笑う。
「俺様が有能って証明だな」
「ルート選びの問題ってわけ? そうは思えないけど」
剣士の異議には輪郭を歪めるだけで応え、魔物は少女に問いかけた。
「で、おまえ。どこへ向かってる」
「どこへ……」
「飛び出したからには、目的地があるんだろう。どこへ向かう」
少女は途方に暮れたように空を見上げ、その視線をそのまま剣士に転じる。
それを受けて剣士は自分の意図を口にした。
「さしあたって、リーニャ・タウンね。あそこには、私の……」
言いさして、彼女はビクッと身をすくませる。
押し寄せてくる圧倒的な、そして不吉な『魔』の波動。
「くっ!?」
「この気配……どうやら、見つかっちまったか」
魔物の声からもおどけた調子は削げていた。
どこからともなく含み笑いが響く。
「ふふ、ふふふっ……」
少女が悲鳴を上げた。
「囲まれてる!」
その言葉通り、三人は四囲をアニマに囲まれていた。
逃げ道が……ない。
「ああ……もっと、顔をよく見せて……」
突如、宙に現れた、手のような黒い影。それが少女の頬をそっと撫でる。
「っ!? 体が、動かない……っ!?」
「何をされた!?」
そう叫ぶ魔物も輪郭をゆらめかせるばかりで身動きが取れないようだ。
今、この場で動けるのは……戦えるのは。
「平気よ。あんたが動けなくたって、私がやってやるわ……!」
剣士は武器を構え直した。
怖い。
死がすぐ隣に迫っているのを肌で感じる。
けれど、恐怖にとらわれすくんでいたら、待っているのは確実な死だ。
「援護する。俺が魔物を呼び出してやるから、うまく使え」
その声に応じて、四つの影が姿を現す。影は剣士の周囲を守るように取り巻いた。
それがどれほど助けになるのかわからない。
けれど、退く道はどこにもない。
己を鼓舞するように雄叫びを上げながら、剣士は疾駆する──
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最後のアニマを斬り捨て、女剣士は肩で息をしながら振り返った。
「なかなか面白いことするじゃない」
魔物が呼び出した影は、巧みな連携で彼女の戦いを補佐した。
正直、その助力がなければ、勝利は覚束なかっただろう。
「そいつはどうも」
「さて、これで片付いたわけだけど」
剣士は警戒を解かぬまま周囲を見回す。
先ほど少女の頬を撫でた『手』。あの『手』の持ち主がどこかにいるはずだ。
「気をつけて! 来る!」
その叫びに誘われたように笑い声が響いた。
「ふふ、ふふふっ……もう、どこにも、誰にも……あははは……」
宙にぼんやりとした人型の影が現れる。
充満する濃密な死の気配。
それでも剣士は抗うことを諦めない。剣を構え、応援を要請する。
「さっきの、もう一回!」
だが、魔物はうめいた。
「くっ、ダメだ……こいつとは、俺は……」
「え、なに言って……」
思わずそちらに目を向ける。
それが致命的な隙になった。
「うぁああああっ!?」
黒い影に弾き飛ばされる剣士。彼女は巨木に全身を叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「あ、ああ……そんな……」
ガクガクと震える少女に人型の影がまとわりつく。
「ふふふ……全部、私が……ふふっ……」
魔物が苦しげに声を振り絞った。
「おい……いい加減にしろよ……。ものには順序ってもんが……」
だが、その声は届かない。
影の哄笑が響いた。
「あはは、あはははは、あはははははは!」
「聞こえちゃいねぇか……!」
少女が悲鳴を上げる。
「こ、これ何!? 足元に黒いのが……」
「暴走してやがる……っ!」
漆黒の空間が一気に広がる。
とても逃げられない速度で、漆黒がふたりの周囲を包み込んだ。
悲鳴と共に少女は漆黒に呑みこまれ、混濁する意識のなかで独白する。
「ほんの少し前まで、閉ざされた空間が『世界』のすべてだったのに、いま、『世界』の果てさえ超えていって――」
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……そして、気がつくと彼女は森のなかにいた。
「こ、ここは……?」
すぐ側の空間に魔物の姿が揺らぐ。
「あそこにリーニャ・タウンが見えるだろ。さっきと同じ場所……のはずなんだがな」
「……なんか、おかしい。風景が、まるで……逆……?」
その呟きを最後に、彼女の意識は途切れた。
//1話 END
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